上泉伊勢守とは

上泉伊勢守像 上泉伊勢守(『武稽百人一首』)より
上泉伊勢守像 上泉伊勢守(『武稽百人一首』)より

 上泉伊勢守は、上州が生んだ偉大な歴史上の人物です。

 上泉城(前橋市上泉町)の四代目城主として、永正五年(1508年)に生まれました。初代は足利幕府の重臣一色(いっしき)家の出自で、衰微した親類の大胡氏を救援のため派遣され、上泉に城を築きました。

 信綱は、十代の半ばで鹿島に行き、松本備前守に剣を学び、帰郷後も熱心に修練を続けました。その上、時折訪れる陰流の剣客愛州(あいす)移香斎に指導を受け、卓越した資質と努力を見込まれて、陰流の全てを伝授されました。信綱はさらに厳しい修練と工夫を重ね、遂に『新陰流』を創始しました。

 当時の上州は、周囲から大勢力の進攻を受けました。上泉城は小さな勢力でしたが、信綱は柔軟な対応と、巧みな外交で危機を乗り切り、領地と領民を守っています。何やら、厳しい環境下で業績を伸ばしている中堅・中小企業のようです。しかし、同盟関係だった箕輪の長野氏が、武田勢によって滅亡しますと、信綱は臣従の勧めを断って、新陰流を広めるため、門弟二人を連れて旅に出ました。行く先々で、おおぜいの門人ができました。

 やがて京にのぼり、将軍義輝に剣を指導、正親町(おおぎまち)天皇の模範試合天覧というたいへんな名誉を受けます。信綱はこの時従五位下でしたが、即日従四位下に昇任し、御前机拝領の栄に浴しました。

 また、有力公卿であった権大納言山科(やましな)言(とき)継(つぐ)卿との親しい交友も知られています。

 一方、大和宝蔵院の胤(いん)栄(えい)、柳生の城主柳生宗(むね)厳(とし)に剣の指導を行いました。とくに、宗厳の熱心さと、優れた素質を見込んだ信綱は、新陰流の全てを伝え、後継者にしました。こうして、信綱が創始した新陰流は『柳生新陰流』として現在に伝わっています。

 信綱の精神は『人を生かす剣』人の命を大切にする、いわば人間愛に貫かれています。信綱が考案した袋竹刀は、剣の修業で怪我をしたり、命を落とすことがないよう工夫されたものです。

 信綱のこの考えは、悲惨な戦乱の世を収束し、平和な世の中を実現させようとするものでした。徳川三百年の泰平の基礎も、幕閣に強い影響力があった柳生家の力だともいわれています。